ボーディ・サットヴァ 過ぎ去りし日々 -シャカ編-
見透かしすぎていたというのか。
常に瞳を閉じていたにも関わらず、13年もの間ずっと。
私が生まれ落ちた際、母は仏のお告げを聞いたという。信心深かった両親はその告げに従い、生まれた地から遠く離れた寺院へと私をあずけた。
別にそれを恨みと思ったことはない。経を学び、瞑想し、悟りへと至る道を俗世と離れて歩むことは、かえってすがしいほどの生活だった。
ただ、気になることがあった。神とは何者なのだろうか。
仏は神ではない、宇宙の真理である。そして、悟りを開くとは神に成り上がることではなく、真理に近づき末にはそれと一体となることだ。
瞑想の、時間も次元もあやふやな空で、私はたびたび何者かの意識に触れた。仏とは呼べぬ、明確な力の発露と熱い感情を携えたその者は、まれに私に呼びかけてきて、あれやこれやと私の意識をかき乱そうとするのだった。
瞑想を打ち切り、そなたは何者かと問えば、まれにいらえが返ってきた。
我は神なり、と。
果たして神とはいったい何者なのだろうか。
その疑問を解く術も無くそして、私は目を閉じているので気が付かなかったのだが、そんなやり取りをしている私の体は、黄金の気に包まれており、その様はすぐに同じ寺院の僧に発見されることとなった。
以後、寺院の態度は変質し、黄金の神気を放つ天の子と、…そう呼ばれる日々が始まった。
そしてそれから一年ほど経った日のこと、ギリシャの聖域からの使いと名乗る男が寺院を訪れた。男は私の体を包んだ気を小宇宙だと言い、私に共に聖域にくるようにと誘ったのだった。
寺院はそれに激しく反発した。天の子を異教の手にゆだねるなど…と私を手放さまいとした。
だがその使者は私に言ったのだ。天が、星が私を呼んでいるのだと。
そして私はそれに応えた。
結果として、引き止めようとする寺院の僧、私の育ての親を捨てていくことになったのだが、私が仏の道を歩んでいたのは、私が神になりたいからではなかった。私を神として祭り上げようとしている寺院よりも、この小宇宙とかいう、今この手の中にある力で守れる人々がいるのだという実感を与えてくれる神を私は欲したのだった。
凛として誇り高い使者が仕えている神の下に、私の菩薩の道があるように思えた。
声高に正義を唱える姿勢が、いっそ潔かった。血と汗を流してどれくらいの人々が救えるかに私の菩薩の道を見い出してみたくなった。まさか最高位の黄金聖闘士として招かれていたとは思わなかったが…。
そしてやってきた聖域は、思っていたよりも生活感に溢れていた。修行中の候補生は幼い者が多く、世話係として付けられた者は現役を引退した聖闘士で、幅広い年齢層が共に暮らす様子は一つの村のようで、意外に思ったものだ。
今世のアテナには一度だけ拝謁が叶ったが、そのお姿はまだ本当に赤子で、そしてそれは悲しいほどに「人体」であった。暖かな小宇宙が私を包んでいるのを感じたが、あの己は神だと名乗った雄大な存在と比べれば、ひどく弱々しい存在に思えた。
地上の人々を守る。それは崇高な使命であることに間違いは無い。
しかし地上の平和を守るとはいっても、言いかえればそれは神の支配欲でもあろう。ハーデスがポセイドンが欲したように、アテナもまたこの地上を欲した。神話の時代の出来事ゆえにその経緯は人の身では知る由も無いが、ただ明確なことはアテナがこの地上を手中に納めたということ。
我ら聖闘士は、言ってみればその支配を維持するための戦力だ。地上を守るという崇高な使命の裏側は、神に代わって支配の拳をふるう駒としての役割を背負っている。
もし奉ずる神の意志を正義とするならば、この身に宿る力は善となり、その奉ずる神が邪神に堕ちれば、宿る力も悪と呼ばれる。
正義と愛とそして力。これらによって地上が守られる。私はその三方の何を担う役として、相応しいのだろうか。迷いが生じていた。
黄金聖闘士には任じられたものの、正義とは何か、正直私には分かりかねた。力は使い道によっては尊き命を救うということを知りながらも、仏の教えは殺生を禁じており、私は敵を討ち倒す正義について語る言葉を持たなかったからだ。
聖域に至る前からセブンセンシズに目覚めていた私には、師というものを与えられなかったのだが、今思えばなんの手違いかと首を捻るしかないが、私は一人で考えた。
敵に対して使用しそれをことごとく打ち倒す力は、全てのものに対して与えられるべき慈悲とは相反するという矛盾が迷いを生み、力を凝らせることのないようにと、そして私は慈悲の心を捨てたのだった。
そして程なくして初めての任務として与えられた遠地の視察より戻ると、聖域は激しく動揺していた。次期教皇候補のサジタリアスのアイオロスが突如反逆、アテナを攫い逃亡したという。時を前後してジェミニのサガも姿を消してしまっているという。
…そして赤子のアテナも実は未だに聖域にはいらっしゃらない。少なくとも、私にはあの赤子の小宇宙が一片も感じられない。
だがその事については秘されている様で、幸いにも後日アテナは無事に保護された…との発表がされており、徐々に落ちつきを取り戻そうかというところだった。
運悪くスターヒルでの神事や瞑想が続いていたため、その時になって初めて私は教皇に拝謁した。
報告をすませ、顔をあげて真っ直ぐに見つめたかの神の地上代行者は、赤子のアテナよりも、私の力に正義という名を与えてくれる神という存在にふさわしく思えた。深く見据えたその本質は清らかで、その感覚こそが神の正義だと感じたからだ。
私は、仮面の教皇の持つ静ひつといってもいい穏やかさと、ときおりひらめくシヴァにも似た激しさに惹かれた。師を与えられなかった私にとって、教皇の持つ本質こそが学ぶべき師であったと言ってもよかった。
かつて私の意識に語りかけてきた存在は果たして神だったのか。それはわからねど、もう迷い悩むことはなかった。神の正義は今も静かに教皇の内にあり、その本質である。
ならばもう迷うこともないだろう。
アテナを弑虐しようとした反逆者アイオロス。なぜあれほどの実力を持つ男が抵抗もせず、むざむざと弄られたというのか。力振るうことに対して、いったい何を迷っていたのだ。己の命も軽んじて。
ジャミールへは三度、五老峰へは一度だけ説得のために赴いたが、ムウも老師もその意志は堅く、徒労に終わった。実のところ、取り逃がしたというシュラの言質も歯切れが悪い。
そこには何かが隠されているとわかるのに、事はまるで霧の中で動く影のようで、存在は認められてもその輪郭はしかと捉えることができない。それぞれの迷いが霧を濃くなさしめる。そして各々そのことを分かっていながらに悩み続ける、それが世の無常というものか…。
青銅の小僧たちが乗り込んでくるという。正義を信ずる真っ直ぐな眼差しは、一種の盲信的な熱だ。使命に目隠しをされて進むその道は本当に正義か?
己の命を投げ出してまで得る勝利に、いったいどんな意味があるというのだ。地上の人々が平和に暮らせる様にと超常の力を振るう我らにとって、命を軽んずる激しさは修羅への落路だ。
どうせ落ちる道なれば、この私が早々に引導を渡してくれる。
だが、迷いは生じた。
それを植えつけたのは修羅にも似た
灼熱の小宇宙。
-END-
あとがき 2004/2/14 風波
ボーディ・サットヴァとは菩薩の意味です。ちなみに菩薩とは、
仏になる前にちょっと人助けをしてにしよう、と寄り道してくれてる人のこと…かな。
シャカを語る上ではやはり、仏教思想がついて回って厄介です。
高校レベルの倫理の知識で書いているので、間違っていてもツッコミは勘弁です。
現在はヒンズー教が主流のインドで微妙な仏教に染まったのだと思い込んで下され;
さて、最も神に近い男であるシャカが、どうして教皇は正義だと言ったのか。
それは当時からの謎でした。
キーワードは、迷い、正義、そして本質です。
数々の名言でも名高いシャカ。そのあたりのツッコミはギャグに回すことにしても、
思い入れが深い分、文章が伸びまくりました。どれだけカットしたことか…。
でもこのシリーズ、彼らより年上になったから書ける話かもしれません。
結局のところ、神に近かろうが難しい言葉を話していようが、子どもだったのです。
慈悲の代わりに正義の不惑を抱いた賢すぎる子どもは、
見えすぎる目を持って事態を世の無常として達観してしまう…。
星矢より年下だった当時は、
逆立ちしても黄金聖闘士の子どもっぽさなんて考えつかなかったでしょう。
ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございました。…でもまだ3/12;
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