仮面の恋
今までは単なるガキだと思っていた星矢に仮面の下の素顔を暴かれたことで、星矢を一人の男子聖闘士として見るようになった。
…と言ってもはじめは本気の殺意を備えた憎しみだったが、いま思うに星矢を聖闘士として真に羽化させたのはこのシャイナではないだろうか。かつての恥辱の記憶は今は淡い自負へと変化を遂げた。
そんなことを考えていると、ふと我が師カミーラよりこの仮面をいただいた日のことを思い出される。
あれは私が聖闘士として聖衣を授かる少し前のことだったと思う。
「素顔を見られてはならない。 これが女子の聖闘士の、言うなれば矜持だな。」
師はこう言って、目元に特異な彩色が施されたこの仮面を私に手渡した。私が受取ると、一拍おいて妙に教訓めいた口調で続けて言った。何も言わずにただ神妙に受け取っただけのつもりだったが、おそらく私はまったくピンとこないという気配を漂わせていたのだろう。
「人の思いの究極は愛さ。 我ら聖闘士は気を高め、小宇宙を燃やして戦うが、その大元となるのやはり愛なのだろうよ。」
常に厳しい師の言葉とは思えなかった。 あの頃の私は、女を捨てて男らしく振る舞うことこそ女子が聖闘士になるに必要なことであり、仮面を被る意味はそこにあると考えていた。 だから愛を説く師の言葉は女の甘さそのものに感じられ、激しい反発を覚えた。
「我が子や愛する相手や、自らの情を傾けた者のために命をかけてしまうのが女というものだ。 それゆえに命を落とす者も多い。 だが、お前はこれよりアテナの聖闘士となるのだ。 己ではなくアテナの愛するもの、すなわち地上を同じく愛し、そして平和を守る為の拳となることを忘れなければならない。」
すぐさま言い返した。
「当然の事です。 それがアテナの聖闘士なのですから。 とうに覚悟はできております。」
「まあ待てシャイナ。 この度の聖闘士候補の中でも男に負けなしのお前だ、無理もないが。 …しかしなにも、仮面とは覆い隠すばかりが役目ではないと私は思うのだ。 この仮面をとった時は、女として、アテナのではなく己の愛するものの為に命をかけられるようにと、その区切りを与えてくれるものではないかと。」
「公私を分けるためにあるのだとしたら、なぜ女子だけに架せられるというのですか。」
「フッ、男はもともと大儀のために戦う事が好きな生き物だからな。比べられんさ。それに私事に奔って己の愛するものを守るために拳を振るったとて、男はみなアテナに恋をするものだから公も私も関係がないのだよ。」
まさか師は誰かに素顔を見られでもしたのではないだろうか。私はそう勘ぐってしまいハラハラしながらそれでも黙ってその話を聞いた。
「まぁいい。 アテナ様の真意がいずこにあろうとどのような意味を持っていようとも掟は掟。 女子の聖闘士はその候補生も含めて仮面を着用し、決して素顔を見られてはならない。 もし見られた時は、その相手を殺すかそれとも愛するかを選ぶこと…。 しかし掟の中でその中でも何より厳守すべきは、聖闘士同士の私闘の禁止だ。 これは候補生、雑兵においても同じこと。 破れば極刑が下る。」
「承知しています。」
サガの乱により歪んだ教義に塗り替えられつつあった聖域の中でも変わらず与えられる教示は、既にこのシャイナの心の一部だった。
聖域−サンクチュアリ−はこのところ、その地中海性気候の典型である穏やかな日が続いている。 空は青く、海も青く、雲と市街は太陽の光を受けて輝くばかりに白い。
しかし、崩れ落ちた柱、裂けた大地、聖戦の傷跡がここ聖域には今だ消えずに残っている。
しかしそれでもようやく、聖域にも復興の兆しが見えてきた。
復旧作業に従事する雑兵の姿を聖域のそこここで見かけるが、運搬されているものは運び出される瓦礫から今は神殿に使う石材へと変わっている。
ギリシャ文明が栄えた古代からの建築法が、ローマの技術を取り入れつつ聖域では現代まで脈々と伝えられてきている。 作業に携わる聖域の者達は、雑兵といえど肉体的な力では常人をはるかにしのぐパワーを身につけていることもあり、重機を使わず人足のみに頼ったこのような工法が可能なのである。
特に傷みが激しかったのは、サガの乱につづいてハーデスとの聖戦でも激戦の舞台となった十二宮であるが、そこは聖域の防衛の要となる場所であるため宮と宮とを結ぶ階段を含め真っ先に修復がなされた。 お陰ですでに白い花崗岩の美しいラインがアテナ神殿まで続いている。
しかし、失われたまま戻らなかったものもある。 そこを守護すべき黄金聖闘士はすべてが空座となり、今は一人もいない。
このたびのハーデスとの聖戦ではアテナの無謀とも思える大胆な戦略によって、前回のような総力戦は行なわれなかった。 聖域と冥界というお互いの総本山が戦いの地となったのだ。
聖闘士を引退してなお聖域に留まり、事務的な仕事をこなす官職に付いている者達の間では、十二宮がここまで破壊されたこと、黄金聖闘士に再び裏切り者を出した件、またその黄金聖闘士の全員失ったことについて、アテナを非難する動きもあった。
しかし、局地的な戦闘が行なわれたおかげで、各地に散って聖闘士候補を育てていた者達のほとんどは命を落とさずに済んだのである。 人材面での回復は先の聖戦よりも、かなり早いだろうと目されていた。
アテナ沙織は、時には神としてそのカリスマを発揮し、時には城戸沙織として身につけた帝王学を駆使して、象徴としてただ崇められるだけではなく、実務面でもいろいろと働いておられるようだ。
最近になって、それが評価として確実に現れてきている。
「シャイナ!」
きつく巻いた燃えるような赤毛とカカオ色の肌という派手な色彩に、鈍銀の仮面と白銀の聖衣がよく映えている。 そして南方の花を思わせる鮮やかな小宇宙は間違えようもない、私の姉弟子にあたる白銀聖闘士カシオペア星座のスレイアだった。
「久しぶりだなシャイナ。 私が聖闘士となり先生の下を発って以来ではないか?」
「いや、確か2年前の冬に、神殿へ向かう姿を見かけた以来さ。」
「なにあの時か。 それはあいさつもせずにすまなかったな。 …しかしまぁ、お互い弟子のある身。 そうそう長話もしていられなかっただろうさ。」
「それはそうと、いったい何の用だい。 アタシも工事の監督を割り振られている身、暇じゃないんだ。」
仲が悪いなどということはないが、自分の未熟だった時代を知る者に対してついつい意地を張ってしまう。 悪いクセなのだが、この強気はなかなか変えられない。 ついつい返事もぶっきらぼうになる。
「そうツンケンなさんな。聞いたよ、女神のご寵愛も深きペガサスに素顔を見られたそうじゃないか。」
そこをまたしっかりと指摘してくるのだ、このスレイアという女は。 仮面に隠された瞳はキラリと輝いてでもいるのだろうか、こういう時のスレイアは仮面をつけていてもひどく意地の悪そうな人物に感じられる。
この聖域で私に対して似たようなニュアンスを言動に滲ませようものなら、白銀聖闘士として特別指導を与えてきたが、姉弟子相手ではそういうわけにもいかないのがまた口惜しい。
「誰から聞いた。」
「こっちが地方で他のトコの弟子まで抱えて引っ込んでる間に、海底神殿に乗り込んだり何かとご活躍だそうだね。 ちょっと聞けばみんな言うよ、あれは自分のペガサスを守りに行ったのではないか…ってね。 そうそう、ハーデスとの聖戦の際には聖域でペガサスの姉の守護にも就いたとか。」
…本当に仲が悪いわけではないのだが、このスレイアもどうにもキツイ言葉を選ぶところが、修行時代からまったく変わっていないようだ。
サガの乱における一連の事件の際に命を落とした白銀聖闘士、バベルとアステリオンの弟子をスレイアが引き取っていたと知ったのはつい最近だった。
スレイアの実力はこのシャイナと同等かそれ以上だとは、師カミーラの下で共修行していた頃から感じており、候補生として師の元へやって来てから2年も経たずに聖衣を得たことがそれを証明していた。 そのスレイアがハーデスとの聖戦に際して聖域に召還されなかったのは、その弟子の多さが考慮されてたからだという。
「海底神殿に乗り込んだのは、いかに聖戦の前哨戦にすぎぬとしても青銅の坊や達だけじゃ不安だったからさ。 聖域を離れられない黄金聖闘士に代わってアテナをお救いするのは、白銀聖闘士としても当然のこと…」
「それでも素顔を晒したのだろう? 昔のお前が見たら、時空を越えてまでもそのペガサスとやらを殺しに来そうな事態だな。」
「あたしは掟に従ったまでさ。 それこそ女神の寵愛深きペガサスをむざむざと死なせてしまっては、アテナが悲しまれるだろう?」
「ふふん、モノは言いようだねシャイナ。 どうせならその噂のペガサスにも会ってみたかったが…、ここから日本はさすがに遠い。 またの機会にするよ。 まぁ、シャイナも視察の名目でも何でもくっ付けて一度くらいこっちに寄りなよ。 今は弟子は取ってないそうだけど、なんだったらうちのチビどもの一人や二人連れ帰ってくれてもアタシは困るどころか大助かりさ。」
「こっちの仕事が一段落ついたら考えてみるよ。 ただし、弟子の件は願い下げだね。どうせ面倒見るなら一から仕込んだ方が面白いに決まってるんだ。」
「残念。 厄介払いができると思ったのにさ。」
言葉ほど本気のふうではなく肩をすくめると、またなと言ってスレイヤは帰って行った。 弟子の愚痴やらをもう少し話していっても良いようなものだが、それをしないのがスレイヤという女だ。
「……弟子、…か。」
カシオスは、このシャイナが初めて持った弟子だ。 聖域に来たのは星矢より3年遅かった。 生まれ持った身体が頑強だったせいか肉体的な破壊力に頼る面があったものの筋は悪くなく、あとは小宇宙に目覚めるのみという段階まで修行は進んでいたのだ。
だが一歩及ばずカシオスより早く星矢が小宇宙に目覚め、結果カシオスは敗れた。
ペガサスの聖闘士の称号を得られず聖衣を東洋へと持ち出されたことについて、あの時の歪んだ聖域では口さがない者達がカシオスを非難した。 しかしサガの乱では獅子宮においては邪悪なる企みをその命を賭して退けるという、アテナの戦士としての役目を立派に果たしたとしてカシオスは聖域から栄誉を受けた。弟子の名誉は回復された。
けれどもこうして、今はもういない弟子の事を考える度にそこにある無力感はなんと言い表せば良いのだろうか。 共に送り出されたが帰っては来なかったという、星矢の他の兄弟の師となった者達もこんな思いをしたのだろうか…。
スレイアが言っていたように、星矢は今、日本にいる。 冥界での神との戦闘は彼らの生身の身体に想像を絶する負担を強いた。
冥界より帰還後すぐさま、城戸沙織が総帥を務めるグラード財団の力を結集して施された現代科学の粋を集めた最先端の医療技術を持ってしても、回復はもとより命を取り留めることすら難しい状態だったと聞く。 それでも生還しえたのは、命の根源たる小宇宙の高み、セブンセンシズをさらに超えたエイトセンシズまでも目覚めていたからこそか。
科学を超えた奇跡の体現者たちはすでに退院し、その後一時はアテナ城戸沙織の計らいでグラード財団の施設に身を置いていたそうだが、今はもうそれぞれの生活をはじめたそうだ。
そのことを教えてくれたのは、他ならぬアテナ自身だった。
一輝はまた何処かへ姿を消し、氷河は故郷でもあるシベリアへ帰還。紫龍は五老峰に渡りそこの娘と共に暮しており、瞬はそのまま施設に残り、学歴を得て資格を取るために勉強しているそうだ。
そして星矢は、幼い頃に暮した孤児院を星華と共に手伝っている。
実は城戸邸に使いに行った帰り、こっそりと様子を見に行ったのだ。 グラード財団の系列ではないその院の庭で、自らの手で勝ち得た平和に身を置き、屈託のない笑顔を浮かべていた星矢の姿は実に愛しかった。
「シャイナ。」
振り向くと、そこには魔鈴がいた。今日はよくよく珍しい人物に声をかけられる日らしい。 魔鈴はたしかここ半月ばかり聖域を出ていたはずだ。
「久しぶりだな。」
「あぁ、ちょっと使いで方々へ出向いていたからね。 今やっと帰ってきたところさ。」
「ご苦労だったね。 報告は?」
「これからさ。 本当に今帰ってきたんだよ。 …そう言えばさっき珍しく女聖闘士と擦れ違ったたのだが、もしかして知り合いか?」
「あぁ、カシオペイア星座のスレイア。 私の姉弟子にあたる人だ。」
「…その名、聞いたことがある。 かなりの実力者だとか。 弟子をたくさんとっているとも聞いたが…。」
「そうらしいね。たまたま会ったんで二言三言交わしてたのさ。」
隠すことでもないのだが、星矢の話題がのぼっていたということは、その星矢の師である魔鈴にはなにやら言いづらいものがある。
なんとなく顔をそらした仕草の意味を、魔鈴は別の方向で捉えたようだ。
「あぁ、引きとめてすまなかったね。 もう日暮れだし、私も今日中に報告だけは済ませないといけないんだ。」
その所為でまったくいらぬ気を遣わせてしまったわけだ。
「別にもう帰るばかりだったから気にしなくてもいい。 あたしの方こそ邪魔をした。 じゃあまたな。」
魔鈴とはそこで別れて自分の小屋へと私は戻った。
不思議なものだ。 魔鈴に対してこのシャイナ、弟子がペガサスの聖衣をめぐる競争者だったことを抜きにしても、聖戦前は差別に満ちていた感情が今は綺麗さっぱりなくなっている。
今だから言えることだが、聖域はけして清い面ばかりを持っているわけではなかった。 すべてはサガに宿った邪悪の所為にできてしまえたらと思うが、おそらくそれは違う。 女神アテナの下で愛と正義を掲げていても、それとはまた違ったところで澱みが溜まり、差別が生まれていた。
特に、聖域で修行し聖闘士となった者たちの誇りから派生した優越感は、様々な形で現れた。 星矢や魔鈴に対する東洋人差別もその一つだった。
もともと、魔鈴は指導をするために聖域にいる聖闘士ではなかったはずだ。 詳しい事情は知らないがある日イーグルの聖衣を持って訪れ、一時的に滞在するところとなっていたのだ。
その時にちょうど日本から星矢が来た。 東洋人と罵られ、弟子に採ろうという者が誰も居なかった星矢は、同じ東洋人だという理由で魔鈴に押し付けられた。 いや、魔鈴の滞在していた聖域の外れにある小屋の前に捨てられたようなものだった。 そのまま魔鈴が面倒を見なければ、聖闘士の修行どころか聖域で生きていくのもままならず、星矢はアテネ市外でストリートキッズになる他なかっただろう。
そのような経緯でありながら、周囲はまだ年若い東洋人に指導など無理だと無責任に笑っていた。 私もよく笑ったものだった。
だが魔鈴は、あの星矢を立派に聖闘士として育て上げた。 聖衣を得たばかりの、頼るべき人物もほとんど居ないこの聖域でそれができたということに今は素直に感心できる。
そして指導者として魔鈴はあくまで星矢を一人の男として育て上げようとしていたが、私にとってカシオスは、あの時までは弟子というただの子分でしかなかった。 派閥を作って、子分を従えて、それも実力の内といい気になっていた私は、師として魔鈴に数歩及ばなかったということか。
しかし、なにがどのような結果を引き起こすか分らないものだ。 女子聖闘士としての最大の屈辱が、私の中に愛する心をもたらし、それを与えた星矢を通じて魔鈴とは今や友といってもいい関係となった。
実力では男子聖闘士に劣らずとも、聖域には現在2人しかいない女子の聖闘士ということで周囲に対して微妙に意識をしていたところがあったが、魔鈴との関係にはそれが必要ない。 どこかで肩ひじを張っていた部分も消え、悪い気分じゃない。
聖域において魔鈴は、表立って活躍する機会を与えられなかった代わりにか、やけに裏の情報に通じていた。
サガの乱では強固な結界に包まれたスターヒルに侵入して前教皇のご遺体を発見し、アスガルドでの戦いでも星矢たちとは異なる攻略法を探り出し、別の面から戦ってきた。
なかでも、聖戦の最中に星矢の姐である星華を探し出してきたことには本当に驚いた。 そもそも、すでにグラード財団がその情報網を使って探している星華を独自で見つけだそうという発想が私にはなかった。
先ほどスレイアの前ではああ言ったが、指摘された様に、ライブラの聖衣を預かり海底神殿へ乗り込む原動力になったのは、星矢の力になってやりたいと想いが大部分を占めていた。 わたくしの念から拳をふるうことが私闘ならば、ポセイドンに対する私闘だったといえるかもしれないほどだ。
しかし魔鈴は、共にいなくとも星矢の戦いの支えになるべく立ちまわっている。
だからなのか、どうも魔鈴には敵わないような気がしてしまう。 以前にはこんなことはなかったのだが。
師としての技量の差、それに、迷惑になると知りつつ星矢を愛していることが星矢への引け目になり、それを師である魔鈴にも感じてしまっているからだろうか。
いや、星矢の全面的な信頼を受けていることへ、多少の嫉妬もあるかもしれない。
それから数日後のことだ。
今日は朝から聖域にアテナ様が御出ましになられていた。
とは言っても、祭礼があるというわけでもなく。 神殿の奥で各地からの報告に耳を傾けられ、時に指示を出されるという事務的な仕事をこなしておられるだけだ。その為、常はアテナ神殿から出ることなくお帰りになることもしばしばだったが、アテナといってもいまだ少女。 男ばかりの長官衆に囲まれての御政務はさすがに気詰まりなのか、時折り話し相手として私をお召しになるのだった。
昼頃、今日もそのようにして呼ばれて昼食をご一緒し、日本での出来事などつらつらと聞いているうちに、魔鈴が聖域を出る許可を願い出ていたことを知ったのだった。
たまたま…というよりは、アテナ様も切り出すきっかけを探しておられたのかもしれない。
「職業上知り得た他人のプライベートなことをこうして明かすのはどうかとも思うのですが…。 やはり言ってはいなかったのですね。魔鈴とは仲が良いのでしょう。」
「はい、親しくしております。しかしそのことですが、なにか理由をお尋ねになりましたか?」
「はじめから聖域に長居するつもりではなかったと。 ただ、しばらくは自分の道を歩むことを許してくれと。」
「あの、それで…」
「ええ、私は常から聖闘士の皆さんには戦士としてだけでなく、人として生きて欲しいと思っています。 あのように言われたら引き止められません、私のわがままになってしまいます。 許可しました。」
「そうですか。 …あの、せっかくお呼びいただいたのですが、本日はこれで退席してもよろしいでしょうか。」
「かまいませんよ。 その様子では積もる話もあるでしょう。」
「はい、失礼いたします。」
アテナ神殿を退出し、魔鈴の立ち寄りそうなところを見て回ってアクロポリスを下ってきたのだが、とうとうふもともふもと、聖域でもその領域の外れの方にある魔鈴の小屋まできてしまった。 ここは星矢が修行中の星矢も住んでいた小屋だ。
なんだかんだと「女」を捨てられない自分がいる。
星矢を愛してしまったこともそうだが、ライバル意識を燃やしている相手といえば、同じ女子の聖闘士である魔鈴ときている。 女を捨てたといいながら、女であることをなんと強く意識し続けていることか。
今さらながら自分の未熟さに気づいてしまった。
だがいつか、魔鈴はそんな私を強いと言ったことがあった。 人の思いは強さになるという。 星矢を愛したことで私の小宇宙も高まったということだろうか。
小屋の中から人の気配がする。 十中八九、中にいるのは魔鈴だろう。 今までの寄り道はすべて無駄足だったわけだが、その道すがら色々と考える時間があった私は何故かだんだんと腹が立ってきた。
あの秘密主義者め。
「見つけたよ、魔鈴!」
とりあえずノックはしたが、返事を待たずに開け放った。 鍵がかかっていても気にしないつもりだったが、幸い扉は開いていた。
「なんだい探してたのかい。 私は今日はずっとここに居たんだけどね。」
多少礼を欠く訪問の仕方だったが、魔鈴はそれには触れずに肩をすくめてこちらに向き直る。
「それは出て行く準備があるからかい?」
さっきまで何をしていたかと目をやれば、案の定、荷物が一ヵ所に集められている。 日用品はまだ棚に置かれていたが、心なしかいつもよりすっきりとした印象を受ける。 いつの間にか、生活臭がとても薄くなってしまっていた。
「しかし耳が早いな。 …そうか、アテナ様が仰られたのか。」
諦めたように、語尾にため息が混じっている。
「なぜだ、聖域での評価も今までとは違う。 お前も聖戦の勇者として認められつつあるのに…。」
「そんなことのために私は聖闘士になったわけでもなければ、聖域にいたわけでもない。 関係ないさ、評価などはね。 今までも、これからも。」
弟子を気にかけてはいるが、けして甘やかすことのないクールな魔鈴ならば、おそらく聖域を離れることを星矢に告げずに行ってしまうつもりだろう。
「それに…、きっと星矢も悲しむ。」
これは憶測などではなく予知だった。言うつもりも無かったただの女としての想いが、なぜか、ふと口をついて言葉として漏れ出してしまった。
「ふっ」
微かなため息と同時に、魔鈴の肩が揺れた。
女子であるがゆえ、その顔に浮かんだ表情は仮面にさえぎられて窺い知ることはできない。 だが、そのわずかな動きで、魔鈴の言わんとするところに勘付いてしまった。
星矢に素顔を見られていながら星矢を殺さず、愛することを選んだお前だから止めに来たのかと、そう思ったに違いなかった。
とたんに頭にカッと血がのぼった。 魔鈴にはこれも見えないだろうが、顔が紅潮しているのが自分では分かる。
「撤回しな!」
言葉と共に思わず拳がとんだ。
本気を出したわけではないが、軽々とかわされて逆に冷静になった。 怒らせてうやむやにしようとしている魔鈴の罠にみすみすはまることはない。 それにこれでは私闘になってしまう。
「魔鈴、お前には下種な勘繰りを入れられるとは思ってなかったよ。 別にアテナへの忠節が揺らぐわけじゃないんだ、私が誰を愛したって知ったことじゃないだろう。 それより、自分の弟子だからってケジメは必要なんじゃないのかい。 それが言いたかっただけさ!」
「悪かった。」
言うだけ言ってこの場を去ってしまおうと思っていたのに、間髪入れずに謝られてしまった。 魔鈴のこういうところはズルいと思う。
「そんなつもりじゃなかった。 シャイナ、お前が血相変えて止めに来るとは正直思ってなかったのさ。 だから少し驚いたんだ。 …立ち話もなんだからお座りよ。」
すっかり話すつもりになったらしい魔鈴の言葉に、ドアへと向けていた体を反転して寝台に腰掛けた。
魔鈴はそれを確認すると、また荷物の整理に戻った。
「…簡単に言うと、弟を探しに行こうと思うんだ。」
手を止めずに淡々と魔鈴が言う。 私は言葉の続きを待ったが、それきり魔鈴は何も言わない。 仕方なく自分でも白々しいなとは思いながらも次の問いを口にする。
どうやら、この期に及んで私がこれ以上尋ねないなら、何も言うつもりはないらしい。
「へぇ…。 例の生き別れの弟かい?」
「そうだ。」
「いくつだ?」
「生きていれば13のはずだ。」
「生きていれば?」
「人間、いつでも死ぬ。」
「…ちがいない。」
星矢と同じくらいか。 今度は心の中だけで思った。 まことしやかに囁かれていたが出所は知らないが、魔鈴には生き別れの弟がいてそれが星矢だという噂は半分だけは本当だったわけか。
「どこにいるかは、わからないのか?」
「別れた場所は覚えている。 だが今どこにいるかは分からない。」
「探すのか…。」
「ああ、そうなる。」
「見つかるさ。 星華ですら見つけたお前だ。」
「ああ。」
吐息のように言葉を吐き出した魔鈴の小宇宙がゆれた。 …これは怖れか? 怖いのか、魔鈴。 弟が見つかることがか、それとも会うことがか?
すべては推測の域を出ない。 おそらく、私の知らない時間がそこにはあるのだ。
「早いんだろ。」
「? なにがだ。」
「すぐにでも発つんだろう、聖域を。」
「ああ、すぐにでも。 でもまぁ、今夜お前と酒を飲む時間くらいはある。」
「酒とはまた珍しい。」
「珍しいといえるほど、お前は私を知らんだろうに。」
「いいのさ、本当に珍しいんだろう?」
「ああ、化け物みたいなガイコク人とは違って、東洋人の体は酒には弱くできているんだ。」
「お前がか?」
「そう、この私が。 せいぜい手加減しておくれよ。」
そういって魔鈴が出してきた酒瓶は、どう見ても下戸の家にあるようなものではなかった。 種類も、その数も。
飲むからには、飲食用の顔上半分だけを覆う仮面に付け替えて、残り物だという豆の煮込みと干し肉を肴に杯を傾ける。
先ほどはこの嘘つきめ、と思ったが、酒には本当に弱かったらしい。 舐めるように飲んでいるにもかかわらず、すぐに耳が赤くなった。
この食事用の仮面をつけている時は、なるべく相手を見ないように接するのがマナーだが、夜も更けてゆけば、女同士ということもあるし、いいかげんに酔ってきたので、もうお互いに気にしていない。
話題の方もはじめこそは聖域の復興具合や、魔鈴が見てきた各地の様子など、任務の延長のような情報交換に終始していたが、心地よい酔いも手伝って時々プライベートな話題にもとんだ。 たあいのない話も多かったが、友ならばそれもまた楽しい。
友。 実はお互い、その言葉を口にして確認したわけではないが、二人で過ごすこの時間が証明している。 友とはそういうものだろう。
「そういえばな、今生のアテナ様は自由主義の社会でお育ちになった。 女子の仮面は時代に合わぬ因習だといって、止めておしまいになりたいそうだぞ。」
はじめはさりげなく、そして段々と具体的に、仮面に関することをアテナに尋ねられる。 候補生を抜かして聖域にいる女子の聖闘士は今のところ自分と魔鈴の2人きりだ。 女子の聖闘士代表として意見を求められているらしい。
女を捨てて聖闘士の栄誉を受けた証だと、私は師の言葉をそのまま借りて仮面は女子としての矜持であると答えたが、自分とは違った思いを抱く女子もいるかもしれない。 このクールな女聖闘士はどう考えているのだろうか。
「ふん、ぞっとしないね。 仮面をとって素顔を見られれば、また星矢あたりが、思ったよりも美人だの美人でないのと。 そんな好き勝手言わせるなんて真っ平ごめんさ…。」
「へぇ…。」
魔鈴の口からこぼれた星矢の名に、ドクンと心臓が波打った。 酔いの所為だ。 心がその名に惹かれる。 思考が女になる。
「…私は、お断りだね。」
再び重ねられた言葉には、魔鈴の思いが込められていたのだと思うが、その内容までは悟れるものではない。 ただ、言葉と共にまた魔鈴の小宇宙が揺れた。
お前が怖れているのは、素顔の己、女の我が身…か?
愛情と憎悪。 女はこの二つの感情を、一人の男に対して同時に抱くことが容易にできるのかもしれない。 私も星矢を愛して初めて実感したことだか。
憎みながら愛するか、愛しながらも殺すか、この矛盾を抱え込める女を怖れるというのか魔鈴…。
一瞬分かった気がしたのだが、それは酔った思考の波に揉まれて、いつのまにやらどこかへ行ってしまった。
夜更けも夜更け、おそらく空がまだ白んでいないというだけで、早朝と言った方が正しい時間になっていたと思う。 いつの間にか魔鈴が寝息を立てているのに気が付いた。 きっと自分もうとうとしていたのだろう事を棚に上げて、つまらんと一言、誰に告げるでもなくつぶやくと、私もつられてそのまま机につっぷした。
翌朝。 妙な匂いに嗅覚を刺激されて目が覚めると魔鈴はすでに起きていて、火を使って何やら料理を作っていた。
「早いな…」
言ってから、戸板の間から射し込む陽の光でもう昼過ぎている事がわかった。
「二日酔いのおかげて寝てられなくってね。」
鍋から椀に作っていた汁物を移すと、目の前にそれを突きした。 どうやら私の分ということらしい。もう一杯よそっている。
椀からは湯気と一緒に先ほどから感じている妙な匂いがたち上っている。
「なんだ手加減はしたぞ。…しかし、なんだこれは。」
「ミソスープ。 アテナ様からミソをいただいてね。 二日酔いに効くそうだ。」
「ミソ? あぁ、日本の食べ物か。」
「正直、日本食なんて憶えちゃいないが私は好きだ。 不味いという奴もいるから無理はしなくていいぞ。」
そういってミソスープを一口すすった。
「ふ〜ん…。」
妙な匂いだが興味はあったので飲んでみる。
「どうだ?」
「不味くはないが…、なんというか、妙な味だ。」
いろいろな、しかも今まであまり経験のない種類の味がする。 どう表現したものかと苦心していると唐突に魔鈴が言った。
「明後日発つ。」
「……そうかい、じゃあ見送りに行くよ。 嫌だと言ってもね。」
「嫌とは言わない。 ありがたいと思うよ。」
「そう思うなら、友にだまって行こうとなんてするんじゃないよ。 黙って行くなと怒鳴り込んで来て損したじゃないか。」
「人の酒をあれだけ飲んでおいて、損もなにもないもんだ。」
「うん、あれは美味しかった。 …またやりたいね。」
「…。」
「…。」
「また、帰ってきたらそうしよう。」
「ああ、そうだね。」
朝の別れは至極穏やかなものになった。
その二日後。 私は魔鈴と二人、聖域の外、アテネ市外に通じる道に立っていた。
「じゃあな、魔鈴。」
「フッ、知っていたか? 星矢ともここで別れたのさ。」
「星矢が?」
「あぁ。」
「旅の途中に、日本に寄れば?」
「こだわるね。 だけど、星矢はこの先ずっと日本に住むつもりだろう。 そこに私が行ったんじゃ、まるで家庭訪問じゃないか。 好きにやらせとくさ。 星矢にはお前から伝えてやってやれ。 そこまで止めやしないから。」
「まぁ、機会があったらね。」
太陽の光が眩しい。
「じゃあな、シャイナ。 アテナ様によろしくお伝えしてくれ。」
そう言って背を向けた。 その姿はあっという間に小さくなり見えなくなったが、 それでも私はしばらくその場で魔鈴を見送り続けた。
ここは神の御座所。 私はここでこの聖なる地を守り、魔鈴はしばらく人の生きる世で弟探し…。
「…そうか、魔鈴はここから星矢を見送ったのか。」
この場所の光と風を直に感じたくて仮面を外すと、独りつぶやいた。
男を愛する自分と女神に仕える自分がここにいる。また、弟子を育ててみるのも悪くないかもしれないとフッと思った。
-END-
あとがき 2003/6/3発表 11/5/1_修正 風波
聖戦後のシャイナさん視点による、シャイナさんと魔鈴さんのお話。私の中の二人はこんな関係なんですが、どうだったでしょうか。
当初は、シャイナさんが聖域で日常を過ごしながらも、何気なくふと遠い日本にいる星矢のことを想ってる…というのが書きたかったんです。題名はその名残。
恋愛モノって難しいですね…。魔鈴さんはこんなに出てくる予定は無かったんですが、結局、二人の友情の話になっちゃいました。
でもこの二人、書いていてとても楽しかったです。仮面についての考察も織り交ぜられましたし。 あと、オリキャラ出してしまいました; 魔鈴さんのとはまた違った関係が書けたかな、と。いつか絵にしたいです。
ちなみに、シャイナさんがことあるごとに星矢を引き合いに出すのは、彼女のセンシティブさではなくて、私の恋愛ストーリー下手の悪あがきです。ファンの方、ごめんなさい。
(04/5/7 追記:この時点ではまさかマジで魔鈴さんの弟が出てくるとは夢にも…) (04/5/7 追記:読み返したらあまりに酷かったので修正。)
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