鬼と野菊
淡く揺らめく光が心地よい。異形はまどろみの海に深く身を委ねていた。
一体いつからこうしているのだろう。
思い出せないほどに過ぎた時の中で、その疑問がふと表層に上ってきた時、意識は急速に覚醒した。
気がついてみればそこは灰色のジャングルと呼ばれる街。
『ここは……』
そのは異形にはまったく見覚えの無い場所であった。巨大な石柱が何本もそびえ、人々は皆似通った着物を身につけて忙しなく歩いてゆく。
その側らでは、たくさんの箱のようなものが固い地面をぶるぶると音を立てて滑っていっている。
そして人々はその往来に立つ異形に、気がついてはいないようだった。
異形は戸惑った。
『この姿でさんざ人間どもを怖れさせていた我が、誰の目にも止まらぬとは…
はて、人を恐れさせていた…? 我はいったい……』
異形はふと視線をはしらせる。
ビルの窓ガラス。それは雲一つ無い晴天のおかげで鏡のようだ。だがそこに映るのは、空の青と流れる雲、地を行く人の群ばかり。異形はそこに己の姿を探したが、いくら目を凝らしてみても見つけ出すことができなかった。
あわてて足下に目をやっても、そこには光に反する影もなく、己の存在証明の希薄さに抱いた一握りの不安は、湧き上がる入道雲のごとくみるまに膨らみ、恐怖と変わった。
慣れない恐怖の圧力に、異形の心はそう長く耐え切れなかった。
そして、ただひたすらに地を駆けた。獣のように。
行きついた先はヒグラシ鳴く山林だった。
己の見知った風景を求めて、異形はずいぶんと長いあいだ走り続けだったが、息は切れてはいなかった。体に疲れもない。
体は今からでも千里を駆けぬけることができる。けれど精神、心の方は、疲労感と虚脱感に支配されていた。
下草を踏みしめ、一足一足木々の間を進んだ。この山はどうやらかつては芝刈り山だったようだが、もう何十年も人の手は入っていない様子で、自然と人工の狭間で時に忘れられているようであった。
歩くうち突き当たった、その腕でも二抱えはあろうかという楠木の根元に、異形はゆっくりと腰を下ろした。鈍い頭痛がする。
それを無視してフッと目を閉じた。まるでネジの切れたゼンマイ人形のように。
寸前、弱い斜陽に染まった野菊がただ、異形の瞳に彩を残した。
魂を狂わせる香
極上の手触り
魅せられてひざまずく逆らえぬ力
昔、一人の男いた。
その男の名は兵吾。下賎の盗賊をしている。
兵吾は今夜、急ごしらえの仲間と共に、急ぎ働きをする手はずを整えていた。狙うは近頃人気の呉服問屋「末松屋」。金を持つに不慣れな御店なら、盗み出しやすかろう。そう考えての選択だった。
襲撃は今夜、丑の刻。
…かつて、兵吾にも羽振りのよい時があった。その頃の兵吾は曲芸芝居一座の座長で、その悪くもない造作もあって武家の奥方や料亭の女将など、こずかいをもらう相手に不自由はなかった。
しかし、時はうつろい風はその向きを変える。
一座の花形役者が他の座にスコンと引き抜かれると、精細を欠くようになった芸に、奥方や女将はいつの間にやら離れてゆき、顔を見せなくなっていった。
そして、それに合わせるかのように、他の役者たちも一人また一人と、一座を離れていってしまった。
それでも兵吾の手元には、いくらかの金が残ったのだが、変わった風に船は舵を切りそこね、持ち上げられることに慣れた男には、切り詰めた暮らしは身についていなかった。金はどんどん減ってゆくだけで、兵吾は途方にくれた。
風雨を避けるために身を寄せている橋の下で、空きっ腹かかえて兵吾は、最後の十文銭をにらんだ。いくつか考えが無いわけでもない。
もともと兵吾は自らの軽業で一座を立てた男である。その芸を売ることはできる。
だが駄目なのだ。下手に道端で大道芸など始めようものなら、途端にやくざ者たちが、ショバ代を取りに来る。十文銭しか持たない今、半殺しで済めばいいが…。
兵吾はもう一度考えた。そしてフラリと立ち上がると、町へとその足向けた。得意の軽業を見せる相手は、もう夜の闇と月の影しかないと心に決めて。
そうして兵吾は今ここにいる。
今宵は新月。兵吾は仲間と共に静かに刻限を待つ。
欲を満たす幻は
その力ゆえに欲望の的となる
金という名の魔性のもの
気がつくと、すでに日は落ち、闇があたりを支配していた。
鬼はしばらくの間、その状況がつかめずにいた。あたりは夢と同じく暗く静かだ。
だが、天上の銀輪が放つ晧々とした光を浴びれば、探さずとも自ずと沸き立つモノが、鬼の中には在った。鬼の体内を巡る血が、脈打ちその存在を叫びだす。
『我は鬼。
八尺三寸の巨躯に長い腕
切り裂く爪と屠る牙に 青銅の皮膚
そして何より人にあるまじきは
額を破りて伸びる角!
我は鬼なり。
我の中の破壊と殺戮
それらすべてが我が我である証。
我は人の血を求め魂を糧とし畏怖されるもの。
その恐怖と憎悪でさえも
我が求めるすべて!』
鬼は吼えた。己の両眼から流れるものにも気がつかなかった。固く透明な冷たい光を投げかける十六夜が光らせたその彩が、夕日よりも赤かったことにも。
夜を見上げるその眼の中には月の姿はなく、世の闇だけがただ映っていた。
血の涙を流しながら搾り出される鬼の咆哮は、風を呼び、まだほんのりと色づきはじめたばかりの木々からさえも、その葉を奪ってゆく。
力が陽炎となって鬼の体を嬲るように包み込んでいたが、今や風はその陽炎をも飲み込んで渦を巻き、旋風となって下草や葉や小枝を激しく踊らせている。
その時、鬼は見た。いや、見えたというべきかもしれない。旋風に巻き上げられた小さな野菊の花に、陽の光を。
すると再び鈍い頭痛が鬼を襲った。だが、陽の光は鬼の脳裏でますますその輝きを増し、それに釣れて頭痛は鋭さを増してゆき、鬼を揺さぶる。
「ありがとう。
私はもう大丈夫よ。
私もう子どもじゃないわ
一人でだって、ちゃんとゆけるの。
私、自分でおむかえだってよんだのよ。
…ほら、ね。
聞こえるでしょう。ちゃんと来てるのよ。
じゃあねぇ。もういかなくちゃ。
ありがと… さよなら…。」
年の割りには長い黒髪を、可愛く伸ばした童女がいた。そして去っていくのだ、鬼のもとから。
マグマの激しさと、日溜りの穏やかさ。相反するようなその二つを持って鬼の中に蘇ったもの、それは記憶。
『我は一体何なのだ…』
そう呟いてしまってから、酷く人間臭い自嘲気味の笑みをこぼす。
『なにを馬鹿なことを。我は鬼ではないか。
それが事実。何を迷う必要がある。』
倒れこむ様に身を寄せた楠木の大樹の根元、鬼はじっと、じっと、ただひたすらにじっとしていた。そんな鬼を包み込む様に、大樹は静かに葉を広げている。
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